かつて釧路太平洋炭坑が隆盛を極めていた頃、三つの採炭抗があった。
興津抗、益浦抗、そして最後まで残った春採抗である。
掘った石炭を港や当時の国鉄の駅に運ぶために設立されたのが、
釧路臨港鉄道だった。
最盛期にはいくつもの路線が延びていた。
その鉄道網は石炭だけじゃなく、住民の足としても客車を曳いて活躍していた。
小さな頃、「臨港鉄道」に乗って、親戚の家に行ったかすかな記憶がある。
しかし旅客営業は昭和41年に廃止となり、
昭和54年には「太平洋石炭販売輸送」となってしまった。
石炭というエネルギー源が利用されなくなったからだ。
それは国のエネルギー政策の転換によると言われるが、
それによって数万の人口の炭坑街が消えるのである。
最後まで残った春採抗は世界一機械化の進んだもので、世界からも注目されていたんだそうである。
この機械化はもちろんコスト削減のための方策であった。
それでも値段は輸入石炭の2倍以上だったようだ。
そして今年、平成14年1月いっぱいで、太平洋炭坑は終わった。
釧路港は、かつて林業資源を送り出し、水産資源を送り出し、石炭という鉱物資源を送り出してきた。
これらの第一次産業の生産物が次々と失われていった、産業転換を目の当たりにする港となった。
現在、炭坑の火は完全に消えたわけではなく、
規模を縮小して「釧路コールマイン」という新会社を発足させ、
3年間だけの試験期間として操業している。
その間に、本当に抗を閉じるのか、なんとか生きながらえる手段を見いだすのか、
判断をしてゆくのだそうだ。
「春採の丘から見渡す 湖面を渡る風が光り
港を後に カラの列車が来るよ 線路を響かせて 炭坑の口へ
遠くに見える オレンジのディーゼル 釧路の海の 底に眠るダイヤ
掘り出し あつめて 街を引っぱっていった」
僕の通った釧路市立東中学校は春湖台という地名にあり、
その名の通り、グランドの端の雑草の原から春採湖が見渡せ、
湖の向こう側のヘリに沿って臨港鉄道は走っていった。
夜になると僕の家からでも、その線路の響きが聞こえることがあった。
だから僕にとって「臨港鉄道の音」は「霧笛の音」と並んで生活の音だった。