ある夏の日曜日、母が「スズランを採りに行こう」と、
僕と姉を連れて、釧路湿原へ向かう列車に乗ったのだ。
それはまだSLだったかも知れない。
あの頃、僕は凄い勢いで煙を吐き、発車時にガクンと揺れて、
汽笛とか蒸気とかの音がウルサイSLは、ダサイ乗り物だと感じていた。
今でもそうだが、北海道の鉄道はほとんど電化されておらず、
蒸気機関車に代わって、ディーゼル機関車がやっと活躍し始めたのが、
その頃だったので、僕はSLよりスマートなディーゼル機関車に憧れていた。
今、考えると、ディーゼルもそうとう騒音のでる乗り物で、
客車の静粛性としての快適さは、電車が断然上なのであり、
比較対象によって人間の快適さの尺度はまったく変わるものである。
とにかく、母に連れられて列車に乗って、釧路湿原の「細岡」という駅で僕らは降りた。
他にだれも降りなかったと思う。
そのころ釧路湿原は国立公園の指定も受けてなかったし、
ラムサール条約とかで湿原が注目を集めていた訳でもなかった。
環境問題という言葉もなかったので、湿原の大切を説く人より、
湿原の開発のしづらさ、使えなさを嘆く人のほうが多かったんじゃないだろうか。
今は観光の目玉の湿原だが、当時は道外から訪れる人もほとんどなく、
地元の人も「だだっぴろい使えない湿地」という感覚で湿原を捉えていた。
母は新聞の小さな記事で、この細岡駅の近くに、
スズランがたくさん咲いている場所があると知ったそうだ。
で、レールの上をテクテクと僕ら3人の親子は歩いた。
しかし、なんとも心細かった。
両側は鬱蒼と茂る雑草の茂みである。
夏草はムンムンと草の香りを発し、息苦しいほどだった。
他に誰もいない。
そしてレールの間をどこまでも、どこまでもいくのである。
確かにそのレールが使われるのは、1時間に一回より少ない。
でも、レールは子供にとっては圧倒的迫力の列車が通るところだ。
何かの拍子で枕木とかに足を引っかけて、抜けなくなったとしたらどうしよう。
などと幼心に思う。
そして鉄橋があった。
それはたいした長さがあるはずがない鉄橋なのである。
しかし、手すりなど全くない、むき出しの鉄橋なのである。
この鉄橋の向こうにスズランがあるのだ。
小学生二人、母親一人。
なぜ、こんな危険なことにチャレンジしなければならないのだろうか。
と、たぶん私は思ったんじゃないだろうか。
実際には覚えていない。
で、渡ったのだ。母はテクテクと歩いて渡りだしたのだ。
僕は必死についていったんだと思う。
確かそうとう怖かったんだと思う。なにかそんな記憶がある。
今、地図で調べると確かに「細岡駅」から北に何百メートルか行くと、
達古武沼から釧路川へ注ぐ川がある。たぶんこれだろう。
まるでスタンド・バイ・ミーのワンシーンのような感じだったんだろう。
スズランを採集したことは、あんまり覚えていない。
けれどあとで、ウチの庭にスズランが咲くようになったのは、
たぶんあのとき採ってきたものを植えたからだと思う。
しかし、スズランよりよっぽど強烈な印象に残ったことがある。
それはダニだ。
帰ってきてから体中が猛烈に痒くなった。
見ると、ポツポツができている。
ダニに噛まれたあとだった。
そこで、スズラン採りにいったときの服や
持ち物など全てをしらみつぶしに調べた。
あとで母が「でっかいダニだったんだわ」と言っていたから、
かなりの大物だったんだろう。
あのときの思い出を語るとき、
僕らは一様に「スズラン採りにいって、ダニに食われた」と言っている。
小学校5年の夏休みは、昆虫採集に凝った休みだったと思う。
というのは、夏休みの自由研究の作品が、蝶の標本で、
それが釧路市の作品展に出品されて銅賞を取ったからだ。
標本ガラスケースの右上の位置に、赤い光沢のある栞のような紙が貼られ、
「銅賞」と黒のマジックで書かれて戻ってきた、
夏休みのわが自由研究。しかし、これがちょっとこそばゆい経緯が。。。
どういうきっかけだったのかは覚えていないが、
なぜか昆虫採集標本道具の最低限が揃っていて夏休みを過ごしていた。
たぶん、博物館や科学館などで行われた、「昆虫採集」の講習に
母が申し込んで一緒に受けたんだと思う。
蝶に防腐剤を注入する注射器セットなどは、おごそかなもので、
子供心に軽い興奮を覚えたものだ。
編み目が細かく、リングの大きい捕虫網。
捕らえた蝶やトンボを傷まないようにしまう三角に畳んだパラフィン紙。
それを入れる三角ケースを肩から下げ、
帽子をかぶって野を駆け回る。
市内では緑が丘といういかにも蝶が飛んでそうなところに何度か行った。
夏休み中、一気に戦果をあげるため、屈斜路湖へ連れていってもらった。
湖畔や野原に蝶を追い、駆けめぐった。
やはり釧路市内よりは、かなり多くの虫たちに会えた。
しかしだ。
私の網使いの下手さに業を煮やした母は、
ついに自ら蝶採集の戦列の最前線に躍り出てしまった。
母はずいぶん上手く、捕らえていた。
そしてかなりの戦果をあげた。
家に帰ってから、戦果を分類し、展翅盤に固定して標本作りをしたが、
もうここらからは、母が思いっきり、手を下していて、
僕は助手のような役回りになっていた。
ガラスケースで覆う標本箱を木を切って組み立てたのも、
木工作の得意な母で、そんなことで夏休みの最後の数日を過ごし、
二学期始業の日、僕の作品とはとても言えない標本箱を学校に持っていった。
それはクラスではダントツの素晴らしい自由研究だった。
そして、それは学校の代表として市の作品展に出品されて、
銅賞をとったというわけだ。
でも、素直に喜べないのは、当然のこと。
今でも、あの銅賞はぜったい僕の賞じゃないよなあ、と思う。